血と葡萄酒

(※これはあくまで妄想による意図的な脱線であり、どの宗教の立場にも立たず記述するものです。キリスト教をダシにしていますが、そういった行為に嫌悪感をもたれる方は無視してください。)


『血と葡萄酒』


新約聖書の「最後の晩餐」は有名な話だ。このときイエス・キリストはパンを自分の肉だと言って弟子(使徒)に食べさせ、葡萄酒を「これが私の血だ」と言って飲ませたという。


何を言ってるんだこの人は。 足で踏み樽で寝かせたものが血になるものか。 第一、血も肉も何もまだ存命中じゃないか。 食わさんでも。


まともに言ったのならばちょっとおかしい人になってしまう。もしかすると、イエスはギャグのつもりで言ったのではないだろうか。
実は彼は「これが私の血だ。 …………だからいつも酔いが回って大変なんだ」とか言って御茶を濁したり(ワインだけど)、あるいは「これが私の血だ。 …………果汁由来だけど! でもそんなの関係ねぇ!」などと言ってごまかしたりオッパッピーしたりするつもりだったのではないか。イエスは最後の晩餐の席にセンターマイクが欲しかったのである。
だが彼の弟子達は敬虔過ぎたのだ。イエスの冗談、その前半の時点で「師匠すげぇぇ!!」「おいこれメモっすよ!」とか勝手に盛り上がっちゃったんじゃないだろうか。イエスが困った顔をして「いや、ちょっと、待て」とか言おうとしても「まじこれ血なんですね!」「パンは肉なんですね!」「師匠うめぇぇ!!」と、もう止めようがない。アホかこいつらは。


「シャレのつもりが、シャレにならなかった」


歴史上、世界を大きく変えるような出来事の中にもこういうことがあっただろう。「最後の晩餐」はそれと同じように、ふざけるつもりの言葉が真っ正面から受け止められた結果、あの少し考えると珍妙にも思えるセリフが残ってしまったのかもしれない。


「こいつら、どうしようもないな」


もう諦めの境地である。偉大な人間が後世に自らの本意をきちんと残そうと思うのなら、自分の次世代の五感となる弟子達はごく慎重に選ばないといけないし、また正しく育てなければならない。宗派が分かれてしまうのは、弟子達の責任である。


「これが、私の血だ」


エスの言葉は、ここで終わりだったのだろうか。