粉話(こばなし)

友達との会話で「粉」が話題になった。
「ある意味ね、粉にならないものは無いよ」
そう言われるとそうだ。
普段から目にする頑強なコンクリートの壁や柱は、もし削られてしまえば粉になる。人々を風雨から守る家を成す木材だってそうだし、岩も何かに擦れて粉の跡を残す。
「あまりに多くのモノに囲まれた現代」だなんて言われるが、もっとミクロな視点で言えば「あまりに多くの粉、そしてその密な集合に囲まれた時代」ともとれる。まぁそこまで言うと物質が存在する時点でウンタラカンタラなのだが。


また、世の中では人為的に「粉」にされるものが多い。


今や飲み物はスポーツドリンクから牛乳まで粉状態のものが売り出され、即席のスープは粉をお湯で溶かす。お風呂の入浴剤も粉だし、調味料の乾燥パセリも粉にされている。金粉で絵を描く人もいる。
食物などは砕き水分を抜くことで粉にされる。そして保存性を増すことで、より便利なものになる。また、粒子が細かくなるため精度の高い(ムラのない)組み合わせにも使える。ふりかけだとか、言ってしまえば肉骨粉だってそうだ。


何だか人間は粉にするのが大好きだな。
「粉もん」なんて単語もあるし、よく考えたら人類の食事情を語る上で重要な小麦が「粉」にされるから当然か。


そして、日本語に至っては人間がついに我が身までも粉にする。「身を砕き」、「骨を砕いて」「粉骨砕身」、「心を砕いて」「身を粉にする」。砕いて砕いて「これ以上、砕きようがない」というところで、ついに「粉」になってしまうのだろう。いささか自虐的すぎる気もするが、とにかく日本人は色々と骨を砕いたり粉にしたがるようだ。それに比べて英語では、一応あるものの「to the bone」などとせいぜい骨止まりで、しかもこれは「骨の髄」、つまり“芯”を主に表現するため、バラエティさでも切実さでも明らかに日本人の方が「粉」になることに積極的であろう。


こうやって訳の分からないことを述べて結局何が言いたいかというと、今の段階では「粉の文化は食に収まらない」とか甘いことしか考えられないが、特に日本人が言語からして「粉」という表現にやや傾倒してきた(ようにも強引ながら考えられる)のは面白い。でも、考えたら「粉」って恐ろしい。爆発したら「木っ端微塵」、燃え尽くされて「灰塵」に帰してしまう(塵も粉と捉えて)。そんな目視できる最小単位の「粉」になるまで頑張ろうというのである。「粉骨砕身」なんて言葉がいつ発祥したか分からないが、戦後日本が持ち前のガッツをもって産業面で大きく(自力で)立ち直れたのは、ひとつ日本語自体がこのように「異様に献身的」な表現においてかなりの多様性を示すことが理由なのではないか。つまり「日本人はやたら働く」という評価は、まず言語において肯定されているのだ。


自分も「身を粉にする」意気で毎日を頑張りたいけれど、「じゃあ、お前、粉になってみろよ」なんて言われた日には速攻で前言撤回する。正真正銘の粉になるのは嫌だ。せめて息絶えてからにして欲しい。