アルバイト始めました

「裏方を知らない人間が表に立ってはいけない」というのは、自分なりの経験から成る信条。
「一流の人間の値打ちは、困った人にどう対応するかで決まる」とは、心に刻んでいる言葉のひとつ。


今日は、ばったり出会って勧誘された清掃業者のところにお世話になりました。


細かいことは先日の記事に任せるとして、今日は朝から、自分の住むアパートの、住居人が出て行った部屋を掃除したのです。


掃除したのです。と言っても自分は全くの役立たず……。
こういうときにいつも己の世間知らずっぷりを恥じるのですが……いや、本当に申し訳なかったです。
教えてもらいながら、怒られながら、それでもなかなかてきぱきと働けず、ちくしょう、と思いながら必死に手を動かす。


お部屋のクリーニングというのは、何事も完璧でないといけません。
綺麗に出来る部分は完璧に汚れを落とし、ゴミを残さず、水滴を残さず。
自分はあんまり要領が良くないので、隙が多すぎます。
そして作業がとろいので「ずっとそこをやるつもり」と怒られます……。
そのセリフ、全く同じことを父親にも言われてるのです(掃除の手伝いの時)。


これでお金をもらうんだから、それ以上は自分も求められる仕事を完璧にこなさなければいけません。作業も速くないといけない。
そういう意味で、そんな妥協が許されない職場というのは自分としては理想的なんです。下手に楽なところで働くと「仕事って、こういうものよ、お金を稼ぐって、こういうものよ」といかにも阿呆な誤認識を得てしまう可能性もあるので。実際そういう人たまにいますし。
また、全く何のアルバイトも経験せずに、箱庭の世界から急に社会に出ても何の役にも立てないと思います。



平凡教育、非凡教育という考え方があります。
非凡教育から言うと、それは現代の「偏差値競争」のことで、他人と比べて自分の成績は、能力はどうか、ひたすらそういうことを争う教育のこと。
平凡教育は、かつては地域がネットワークを形成して子供達に教えていた、礼儀であったり、しきたりであったりという、いわば「一般常識」。
今の世の中は完全に非凡教育に傾倒してしまっているので、それにどっぷりと浸かるコースで生きてきた人間には、どうも「平凡」の要素が欠落してしまっていると思うのです。


んで、今回の「清掃」は明らかに「平凡」、解釈を進めると生活常識の事柄。


しかし今の大学生の中で、きちんと掃除ができる人はどれくらいいるのでしょうか。
自分は出来ません。おせちとか、そういうのはもってのほかです。
何にせよ「当たり前」であるはずのことを「当たり前」のように「きちんと」こなせる人が一番強いと個人的に思っているのですが、これがなかなか見あたらない。
とある人に聞いた「東大卒を雇用したけど、お茶を淹れられなくて、だから解雇した」という話が忘れられません。
おいしいお茶、礼儀正しいお茶、淹れられますか?


この頃の社会(と言われて久しい)はそういう「人としての前提、常識」というものの中身がどんどん変容してきていますが(パソコンだの携帯だの)、いくら格好付けて、あるいは嬉しがってそういう文明のなんたらを主張しようとも、人間が人間である限り生理的な部分からは決して逃れられることは無いのだから、結果として必ず「掃除」や「自炊」に戻ってくる瞬間があるはずです。
そりゃ、今時は就職するときにパソコンなどを扱えないと笑われるかもしれないですが、「掃除が出来ない」というような根本的な常識に対しては、きちんとした見識を持った人間から、より冷淡な笑いを飛ばされるのではないかと思います。


だから、今回のアルバイトを通して、自分がいかに「平凡」な部分で欠落したものを抱えていたのかが身に染みました。本当に、恥ずかしいです。


職場の人たちはみんな凄くいい人達です。理由と手本をつけて叱ってくれることほど優しいことはない。
だからこそ、その輪の中で自分がまともに動けないことが悔しいし、一日でも早くその恩に報いなくてはと感じます。


大学が忙しくなってくるし、他に抱えた大切な用事が日常を圧迫してしまうことが少し残念ですが、その合間を縫って、少しでも教えてもらえるよう、そしてお手伝いできるように頑張ります。むしろアルバイトがいいアクセントになって(毒とも言えるかもしれないけど)、日常が引き締まるように気持ちを改めます。ただ、こういうアルバイトが学生の本業では全くないので、そこはわきまえて、一本線を引いて、気を付けます。


ただ、「空いてるときに入ってくれたら」と言われても、ずっと人手不足だったら、人員が無理をするしかないんだよなぁ……。